Share

第58話 取締役会の懸念

last update publish date: 2026-09-03 20:00:00

その夜。私は自宅で一人、お湯を沸かした。

誠一郎さんの家で聞いた「続きは、また今度」という言葉と、柊さんの手の温もりが、まだ両方とも胸の中に残っていた。

マグカップに茶葉を入れ、湯を注ぐ。立ちのぼる湯気の匂いを吸い込んで、少しだけ息をついた。

スマホが、テーブルの上で光った。城島さんからだった。電話ではなく、メッセージだった。

『先週の記事を受けて、一部の役員および親族から、正式な文書が届きました。内容を確認していただきたく、資料をお送りします』

続けて、PDFファイルが送られてきた。

指が、開くのを一瞬ためらった。

◇

開いた文書には、丁寧な言葉づかいの中に、刃のような一文があった。

『後継者の伴侶として、素性の不確かな人物との交際は、グループの信用に関わる』

素性の不確かな人物。

正しくはない。でも、完全に間違いでもない。身代わりとしてお見合いに行った。姉の名前を使った。五年前のことを隠している。

マグカップに

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第107話 凪いだ時間、そして次の季節へ

    一月の第二週、東京は本格的な冬を迎えていた。窓の外では、冷たい風が街路樹の枝を揺らしていた。それでも、部屋の中は、暖房の温もりと、静かな安心感で満ちていた。柊さんの部屋で過ごす夜が、以前よりも穏やかになっていた。父との一件、雅人との一件、これまで積み重なっていた緊張が、一つずつ解けていくのを、肌で感じていた。ソファに並んで座り、特に何をするでもなく、静かな時間を過ごしていた時だった。テレビもつけず、スマホも開かず、ただ隣にいるだけの時間。以前なら、こんな何もない時間を、少し落ち着かなく感じていたかもしれない。今は、その何もなさが心地よかった。「もう、誰にも邪魔されない気がします」思わず、そうこぼした。「そうだな」柊さんが、短くそう答えた。それから珍しく、私の頭に、そっと手を置いた。大きな手のひらの重みと温もりに、体の力が抜けていくのが分かった。言葉ではなく、こうした仕草で気持ちを伝えてくれることが、この人らしいと思った。「柊さんも、少しは楽になりましたか」「……そうだな。以前より、肩の荷が軽い」素直な答えだった。以前の柊さんなら、こんな風に自分の内面を、まっすぐ言葉にすることは少なかった。「父のことは、まだ何もかも解決したわけじゃない。でも、少なくとも、目を逸らさなくてよくなった」「それだけで、十分な変化だと思います」「かもしれない」◇数日後。仕事帰り、駅で偶然、城島さんと会った。「西園寺さん、お久しぶりです」「城島さん。今日はお仕事ですか」「ええ、少し外回りで」改札を出たところで、立ち話になった。師走の慌ただしさが過ぎ、駅前には正月らしい静けさがまだ残っていた。自然と、この数ヶ月の専務とのことが話題に上った。「これで社長は、全部一人で背負わなくてよくなりましたね」城島さんが、しみじみとした口

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第106話 時間をかけて

    柊さんのお父様との対峙から、数日が経っていた。柊さんの様子に、大きな変化はなかった。ただ、以前より少しだけ、父親の話をするようになっていた。「今日、父から連絡があった」夕食の席で、ぽつりとそう言うことが増えた。内容は事務的なものが多かったけれど、それでも、話題に出すこと自体が、以前とは違っていた。「どんな連絡ですか」「地方ホテル事業の件で、進捗の報告があった」一度だけ、柊さんが、あの対峙の夜のことを、少しだけ話してくれたことがあった。「あの日、少しだけ、声を荒らげてしまった」「柊さんが、ですか?信じられない」「らしくない、と自分でも思う」その一言に、驚きと、それ以上の安堵があった。この人がずっと抑え込んできた感情を、少しでも吐き出せたのなら、それは前進のはずだった。◇柊さんから詳しく話を聞いたのは、それから数週間ほど経った頃だった。地方ホテル事業の再建策を、柊さんが正式に提示したこと。黒瀬の名前も、父親の口利きも使わず、コンサルタントの導入と、段階的な事業整理を進めていること。「時間はかかる。でも、確実に立て直せる道筋だ」そう語る柊さんの声に、以前のような刺々しさはなかった。「打ち合わせの席で、父が一度だけ聞いてきた。『なぜ、ここまでしてくれる』と」「何て、答えたんですか?」「あなたのためじゃない、と」柊さんが、続けた。「これで区切りをつけたいのは、俺自身のためだ、と言った」その答え方が、いかにも柊さんらしかった。優しさを、優しさのままでは差し出せない人。それでも、行動でちゃんと示してくれる人。「あの縁談の話は……」「正式に撤回された。取引先への支援打ち切りという話も、二度と出ていない」その一言に、ようやく大きな棘が抜けたような気がした。◇年が明けて間もない、一月の初め。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第105話 柊、父と向き合う〜柊side〜

    【柊side】柚葉さんが父に会いに行った、という報告を城島から受けたのは、その日の夕方だった。驚きはしたが、怒りはなかった。むしろ、彼女らしいと思った。誰かに任せきりにせず、自分の足で向き合いに行く。そういう人だと、最初から知っていたはずだった。同時に、情けなさも感じた。彼女に、そこまでさせてしまった。本来なら、俺自身がとっくに片付けておくべきことだった。その夜。俺は自分から、父に連絡を入れた。これまで、俺の方から連絡することは、ほとんどなかった。番号を呼び出す指が珍しく、わずかに迷った。◇指定した場所に、父は時間通りに現れた。以前より、少しやつれて見えた。オフィスで話した時のような、取り繕った余裕はもうなかった。前置きを、あえてしなかった。回りくどい言葉で探り合う時間が、無駄に思えた。「なぜ、母さんの最期に来なかったのか──それだけ、聞かせてください」ずっと、聞きたくて聞けなかった問いだった。十七の時から、十七年近く、胸の奥にしまい込んだままだった。祖父の誠一郎に聞いても、答えは返ってこなかった。母自身も、多くを語らずに逝った。父は、しばらく黙っていた。視線を落とし、テーブルの木目を見つめている。その沈黙の長さが、これまでの十七年分の重さを、そのまま表しているようだった。「怖かったんだ」やがて、父が絞り出すような声で、そう言った。「彼女に、何もしてやれなかった自分を見るのが」その瞬間、抑えていたはずの何かが、喉元までせり上がってきた。「怖かった、で済むと思っているのか」自分でも驚くほど、声が大きくなっていた。「あの頃、俺がどんな夜を過ごしていたか、知っているのか。母さんの隣で、一人で朝を待っていた夜が、何度もあった。祖父も、仕事で家を空けることが多かった。誰も、そばにいなかった」言葉が、堰を切ったように出てきた。十七年間、誰にもぶつけたことのなかった感情だった。父が、はっとしたよう

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第104話 詫びるということ〜隆之side〜

    【隆之side】柚葉という女性が去った後、俺は一人、オフィスで長く座ったままでいた。『専務さんが決めることではありません』あの一言が、頭の中で何度も繰り返された。まっすぐな目だった。怯えているようで、芯の部分では、全く怯んでいなかった。あんな目で見られたのは、いつ以来だろう。自分の息子が、あんな相手を選んだのだと思うと、複雑な感情が胸の中で渦を巻いた。羨ましさに近い何かと、それを認めたくない意地。両方が、同時にあった。本当は、分かっていた。柊に合わせる顔がなかったのは、単なる意地や体裁の問題ではなかった。妻の最期に間に合わなかったこと。会社を守れなかったこと。息子が完璧であろうとするほど、自分の不甲斐なさが際立つようで、距離を置くしかなかった。「あいつは、俺に似なくてよかった」誰にともなく、そう呟いた。声は、誰もいない部屋に、虚しく吸い込まれていった。◇思い返せば、柊が幼い頃、一緒に模型を作ったことがあった。まだ、妻が生きていた頃のことだ。不器用な手つきで、小さな窓枠を貼り付けようとする柊の隣で、俺は仕事の電話に気を取られてばかりいた。『見てて、父さん』と言われても、生返事しか返さなかった夜のことを、今になって思い出す。あの時からずっと、俺は、目の前にいる人間より、目の前にない何かを優先し続けてきたのかもしれない。会社を追われるように離れた後も、それは変わらなかった。地方のホテル事業に飛ばされても、そこで誰かと向き合うことより、失った地位を取り戻すことばかり考えていた。柚葉という女性の目には、そういう自分の全部が、見透かされていたのかもしれない。◇数日後、父・誠一郎に呼び出された。黒瀬家の本邸を訪れるのは、久しぶりだった。庭の見える座敷で、父と向かい合って座った。冬の庭は、葉を落とした木々が寒々しく並んでいた。それでも、その静けさが、不思議と落ち着く場所だった。「柚葉

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第103話 柚葉、柊の父に会う

    雅人さんの一件が片付いてから、数日が経っていた。柊さんとお父様のことは、まだ何も解決していない。むしろ、雅人さんのことが片付いたことで、余計にはっきりと、その未解決の重さが浮かび上がっていた。柊さんは、相変わらず何も語らない。ただ、以前より少しだけ、疲れた表情を見せる瞬間が増えた気がした。夜。電話の着信履歴を静かに確認しては、また画面を伏せる。その仕草を、私は何度も見てきた。このままでいいはずがない。そう思いながら、何日も迷い続けていた。柊さんに、直接聞くべきだろうか。それとも、待つべきだろうか。何度も考えを巡らせたけれど、結局、どちらの選択も、根本的な解決にはならない気がした。◇葵に、電話で少しだけ話した。「柊さんのお父さんのこと、まだ何も解決してなくて」『柚葉が動くつもりなの?』「……わからない。でも、このまま何もしないのは、違う気がする」葵は、しばらく黙って聞いていた。それから、いつもの調子で言った。『柚葉らしいね、それ。でも、無茶はしないでよ』「うん」その一言に、少しだけ背中を押された気がした。そしてある夜、決めた。柊さんを通さず、自分の意思で、隆之さんに会いに行こう。◇黒瀬グループの本社を訪れたのは、平日の午後だった。アポイントは取らなかった。取れば、断られる可能性が高いと思ったからだ。受付で、隆之さんの在席を確認してもらい、しばらく待った。断られても構わない、そのつもりだった。待っている間、これまでのことを、頭の中で何度も反芻した。柊さんが見せた、あの一瞬の陰り。「大丈夫だ」という、誰にも向けていないような一言。あの言葉の裏にあるものを、ちょっとでも軽くしたかった。意外にも、少しして「お会いになるそうです」と、案内された。案内される間、心臓が落ち着かなかった。何を言われても、動じないと決めていたはずなのに、いざ扉の前に立つと

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第102話 雅人との決別〜真帆side〜

    【真帆side】柚葉から電話があったのは、夜の九時過ぎだった。『お姉ちゃん。……雅人さんが澄川奈緒さんに、私たちのことを話していたかもしれないって、柊さんが』しばらく、言葉が出なかった。「……そう」短く、それだけ返した。驚きはなかった。むしろ、どこかで予感していたことが、ようやく形になっただけだった。電話を切った後、あたしはしばらくソファに座ったまま動けなかった。雅人が、あたしを通して何かを得ていたのだとしたら。あのお酒の席での軽い一言も全部、計算の一部だったのかもしれない。思い返せば、雅人はいつも、あたしと会うたびに、それとなく黒瀬家のことを聞いてきた。『黒瀬社長って、どんな人?』『真帆の妹、大変そうだね』──何気ない会話のつもりで、全部答えていた自分が、今更ながら情けなかった。あの頃のあたしは、聞かれるたびに、少し得意になっていたのかもしれない。妹が黒瀬グループの社長と関わりがあるということを、まるで自分の手柄のように話していた気がする。でも、それを確かめる方法は、一つしかなかった。◇翌日、雅人に連絡した。『話したいことがある』とだけメッセージを送った。指定したのは、二人で最後に会ったあのバーだった。雅人は、以前と変わらない顔で座っていた。「久しぶり。まさか、真帆から誘われるとはな」「単刀直入に聞くわ」あたしは、席に着くなり言った。「奈緒さんに柚葉たちのこと、あなたが流したの?」雅人の表情が、一瞬だけ固まった。それから、ゆっくりと笑みを作った。「……何の話だよ」「とぼけないで」あたしは、まっすぐ雅人を見た。「あたしと付き合っていた時、時々、黒瀬家の内部の話をしていたこと。今になって、全部繋がった」雅人は、しばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。「……勘がいいな、相変わらず」その一言に、以前なら

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第5話 鳴らないはずの電話

    一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第4話 終わったはずが

    『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第3話 見透かされる嘘

    それから、当たり障りのない会話が続いた。趣味のこと、好きな食べ物のこと。プロフィール帳に書くような、差し障りのない質問と回答。姉から叩き込まれた設定を頭の中で繰り返しながら、ボロが出ないようになんとか答え続けた。ところが──。「お仕事は、普段何をされているんですか?」ひどく自然に投げかけられたその質問に、張り詰めていた頭が一瞬でフリーズし、口が勝手に動いた。「広告の……プランニングを──」しまった。姉は、ファッションモデルのはずだ。「……っ、いえ。今はモデルの仕事を少しお休みしていて、その……裏方のお手伝いのようなことを」取り繕うように、慌てて言い直す。顔に熱が集まるのを感

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第2話 偽物の名前

    ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status